
文京区本郷、東京大学キャンパス内の広報センターです。
東大の竜岡門横にあります。 大学付属病院の夜間急患受付の目的で、1926年(大正15)
岸田日出刀設計で建てられました。 ゴシック様式を基調としていますが、モダンな建物です。
東京大学といえば、赤門、三四郎池、安田講堂が、一般的に思い浮かぶのではないかと思います。
本郷キャンパスは、江戸時代の加賀藩邸を転用して整備され、赤門は、加賀藩上屋敷の御守門
(国の重要文化財)でした。
三四郎池は、夏目漱石の「三四郎」にちなんでいます。
熊本から上京した小川三四郎は、団扇を持った里見美禰子と、この三四郎池のほとりで出会います。
こうして、漱石による日本初の本格的な青春小説が始まるのです。
安田講堂は、正式には「大講堂」といい、安田財閥の創始者 安田善治郎の寄付により、
内田祥三が基本設計、関東大震災による工事中断の後、岸田日出刀が担当し、1925年(大正14)に完成しています。
私は安田講堂といえば、1968年(昭和43)全学共闘会議に占拠され翌年1月に、機動隊により強制排除された
東大闘争をまず思い出します。
機動隊が放水し、学生たちを追いつめていく様子のテレビニュースを、小学生時代の私はどのような思いで
みていたかは記憶にありませんが、テレビに映し出される映像を、食い入るように見ていた記憶はあります。
お話を戻しましょう、安田講堂は時計塔が中央にそびえて、壁面全体に縦線が強調されている建物です。
車寄せ正面入り口には、尖頭アーチがあります。 つまり、近代のゴシック様式で建てられています。
広報センターもそうでしたが、では何故、東大の主要な校舎はゴシック様式で建てられているのでしょうか?
少し、歴史の勉強をしてみましょう。
東京大学は、明治時代に大学南校と大学東校が合併して、1877年(明治10)に設立されました。
先に、東校の系列であった現在の医学部が移転し、木造擬洋風様式の校舎を建てました。
次に、南校の系列であった現在の法学部、文学部、理学部が移転してきました。
文化系(法学部、文学部)は、1884年(明治17)ジョサイヤ・コンドルにより、レンガ造ゴシック様式で建てられました。
理科系(理学部)は、1888年(明治21)山口半六により、レンガ造古典様式で建てられました。
さらにその後、工部大学が統合し帝国大學となり、工学部が辰野金吾が改良型ゴシック様式で校舎を建てました。
こうして、建築様式の見本帳のような状況になっていたのです。
ところが、1923年(大正12)関東大震災がおこり、ほとんどの校舎は焼け落ちてしまいます。
このとき、安田講堂を造りかけていたのが、内田洋三でした。
内田洋三は、工学部建築学科の教授であり、後の東大総長です。
彼は、キャンパス施設を建築することになり、建て直す際出自である工科系の様式、
改良型ゴシック様式に統一していったのでした。
こうして、東大本郷キャンパスの現在の基礎が造られていきました。
ともあれ、歴史が刻み込まれ、人々の記憶に深く留まっているような建物が多いキャンパスです。
出来る限り保存し、使い続けることを期待します。
前出の広報センターは東京都選定歴史的建造物に選ばれています。
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